愛媛県鬼北町教育委員会はこのほど、鬼北町中野川の国史跡「等妙寺旧境内」中枢部分の調査で、客殿と庫裏が一体となった本坊跡を確認した。15世紀半ばに京都で生まれた建築様式「京間」を採用しており、2013年に発見された本堂とともに16世紀前半に建てられたとみられる。京間が西日本に広く普及したのは江戸時代とされ、町教委の幡上敬一学芸員(42)は「中央の様式をいち早く取り入れる太いパイプを持っていた」と分析している。
 京間は、1間を6尺5寸とする京都発祥の建築様式。見つかった本坊跡の客殿部分は縦約12メートル、横約8メートル、庫裏は縦約10メートル、横約18メートルで、一部の礎石は1間半や半間の間隔で配列されていた。
 1588年に火災で焼失した本堂跡と平行して立ち、熱で礎石が破砕していることから、本堂と同時期に建設され焼失したと判断した。本堂に合わせるため、くぼ地に約3メートルの盛り土をして平場を造成し石積みを積み増している。崖に面した部分には防災を意識した高さ約3メートルの塀跡がある。
 旧境内調査整備検討委員の三浦正幸広島大大学院教授(建築史)は「先進的な建築技術が、この地に伝わっていたことを示す貴重な発見」と話している。
 また本堂跡一帯の下層で、火災で破砕していない礎石を発見。前段階の本堂のものとみられ、建築年代は不明だが、文献などから1320年の開創期の建築と推測。現在の等妙寺を含めて3世代の建築様式はほぼ同じで、幡上学芸員は「本坊には中央の様式を取り入れるだけの権力がありながら、本堂は以前の形を継承し伝統を守っている」と話している。
 等妙寺は天台宗系の山岳寺院で、火災で焼失した2年後に奈良山下の現在地(同町芝)に移された。旧境内は2008年、国史跡に指定。町教委は12年秋から、中枢機能があったとされる西方地区を発掘調査しており、中枢部分の全体像がほぼ判明した。発掘を終えた部分は保存のため16年度中に埋め戻す予定。同町教委は16日午前10時に町役場を出発し、現地説明会を開く。