松山時代の「金之助先生」は高給取りだったが、寄付額も校内一だった―。夏目漱石(本名・金之助)が愛媛県尋常中学校(旧制松山中学、現松山東高)に赴任中の1895(明治28)年7月、日清戦争の凱旋(がいせん)歓迎式に関連し3円を寄付していたとの記事が、当時の海南新聞(愛媛新聞の前身)の広告欄に掲載されていた。今年が漱石の松山赴任120年に当たることから、愛媛新聞社が紙面を調査している過程で分かった。 
 7月25日付の広告欄に、県尋常中学校教職員16人の寄付金計12円30銭の内訳が載っており、ともに帝大出身の漱石と教頭横地石太郎が3円、校長住田昇は2円、梅木忠朴50銭、高瀬半哉30銭、弘中又一25銭など。小説「坊っちゃん」に登場する「狸」や「赤シャツ」、「野だいこ」などのモデルの一人とされる人物が名前を連ねている点も面白い。
 漱石の月給は、校長の60円を上回る80円だったことが知られている。教頭も校長より高い給料だった。松山坊っちゃん会の武内哲志会長は「給料に応じて寄付額が決まっていたのではないか」と推察し、「漱石は中学校の校友会誌『保恵会雑誌』の印刷代としても3円寄付しており、江戸っ子らしく気前が良かったようだ」と話す。